昭和41年、静岡県清水市(当時)の味噌会社で4人の焼死体が見つかった「袴田事件」。袴田は確定死刑囚となった。再審開始の決定は、有罪の決め手になった血に染まった衣服のDNA鑑定の信憑性。48年ぶりに釈放された袴田は、3歳年上の姉と生活を始めた。しかし、自由になったはずの袴田も、検察の即時抗告によって再審は始まっていない。いまだ死刑囚であることに変わりはなく、年金もなければ、選挙権もない。長年の拘置所生活による拘禁反応で、精神に障害が残っている――。
昭和41年、静岡県清水市(当時)の味噌会社で4人の焼死体が見つかった「袴田事件」。袴田は確定死刑囚となった。再審開始の決定は、有罪の決め手になった血に染まった衣服のDNA鑑定の信憑性。48年ぶりに釈放された袴田は、3歳年上の姉と生活を始めた。しかし、自由になったはずの袴田も、検察の即時抗告によって再審は始まっていない。いまだ死刑囚であることに変わりはなく、年金もなければ、選挙権もない。長年の拘置所生活による拘禁反応で、精神に障害が残っている――。
昭和36年、三重県名張市の小さな村の懇親会で、ぶどう酒を飲んだ女性5人が死亡した「名張毒ぶどう酒事件」。奥西は35歳で逮捕され、死刑が確定したが、獄中から無実を訴え続けた。半世紀に及ぶ独房生活、その間、奥西は2桁を越える囚人が処刑されるのを見送った。ここ3年間は、八王子医療刑務所で寝たきりの生活を送っていた。奈良県の山村に暮らす4歳年下の妹は無実を信じ、片道5時間かけて兄のもとに通い続けていた――。